昭和41年06月22日 朝の御理解 



 昨日は午後からでした、田主丸の田代さん達が親子でお礼に出て見えました。今日があちらの宅祭りがございます。丁度原さんのところの宅祭りのあの日が、具合が悪かった模様でしたけれど、あれからちょっと休みついてしまって、まあようやく昨日頃から起きて、まぁ本当じゃないけれど、明日がお宅祭りでもありますし、御礼なりお願いなりというので出てみえた訳でございましょうが。
本当にあの、明日お祭りを奉仕させて頂きますのに、日頃修行も出来ておりませんもんですから、神様が修行をさせて下さいますと、まぁ言うておられますが、またそれは本当だと思いますですね。確かに宅祭りが宅祭りとして、謝恩祭が謝恩祭としての内容を持ったおかげを頂く為に、やはり、神様が修行を求め給うのでございましょうね、あれが例えばお祭りをしたという事だけが謝恩の形の御用でございませんですから、それを仕える内容を神様が求め給うのでございますから。
、ここでまぁ日にちが修行でございますけれども、お互いが日にち修行させて頂くという事は、まぁ様々な工夫をこらして皆さん、修行をなさっておられるけれども、今の椛目では、私はもういよいよ最高の修行と言うのはどう言う修行かと言うと、お日参りをさせて頂いて、そしてその日の御理解を一日の中にどう生かし現して行くか、それを受けて行くかという事意外にないと思うんですね、この信心が出来ればですね、私はそれこそ修行させられると言うな事はないと思う。
 ただお日参りしておるという修行じゃいけんのですよ、最近はねそう言う人達が段々でけてきたようですね、昨日一日、朝の御理解を頂き続けさせて頂いて、まぁいろいろそこには必ず体験が生まれておるですね。善導寺の原さんがそういうお届をなさいました。熊谷さんがここ毎日のようにそのお届けをされておられる、もうとにかく朝の御理解をもう帰ったら「えっと今朝の御理解はどげなん御理解じゃったろう」ち言う様な事だから行じるわけ、事も出来ない事になる訳ですから。
 いかに今日の、今日の頂き所はここだと言った様なものを一日の中に生かして行かなければ、お参りをさせて頂いた、お日参りをさせて貰う、それも修行でしょうけれども、それでは私はお道の信心にはもとると、何事も信心になるという事はその日の例えば、今の椛目でその御理解をです、今朝の御理解はこう言う御理解であったから、この御理解を心の中に頂き続けさせてもろうて、ね、行く事を修行とさせて貰うと言う事、してみるとお日参りをさせて貰わなければおられんのであり、そこでですそう言う様な信心がどう言う様な心掛けになったら出来るかなんですよね。
 昨日、善導寺のお月次祭でございましたから、関さんの車でおかげを頂いたんです。車に乗らせて頂いてから車の中から気分が悪くなった、まぁ心臓でしょうかね胸が、このぐらいあおぐぐらいにどきどきするんですよね、まぁとりあえず着いたけど、その声を出してからお届けをするともきついぐらいにあるとですよ、だからお祭りが始まって、いよいよ、手長、手長も私と勝彦と、それから岸先生と三人で奉仕させて頂いたんですけれども、それでこれは神様に御無礼しようかと思うてから。
 一生懸命お願いさせて頂いておりましたら、今はあんな物は履きませんけれども、ご本部に参りすとあれを履きますたいね、紙緒のぞうりちいう、ご本部参拝にあちらへ参りますと控え所でみなさん買うてからお参りされる時に履いていかれるでしょう、あれは昔はこの辺お葬式の時にあれは使ったもんでした、紙緒のぞうり、もういっぺんぎりのぞうり、あの紙緒のぞうりがですの、鼻緒が切れておるところを頂きました、そして私はそれから感じました事は。
 死んだと思うて欲を放しと天地の親神様は教祖の神様に仰っておられるこの事だと私は思うたですね。死んだと思うて欲を放すという事、まぁこれが言うなら最高の修行でございましょうけれどもですね。それからおかげを頂いてからあの、まぁ立つ時には一生懸命ですからね、手長の御用をさせて頂いとる間は別に感じんぐらいでした。それからお説教中もだいぶんきつかったですけれども、お説教が済んで帰るころになったら平生におかげを頂いておりましたけれども
、例えばどんなに大売出しの、忙しい最中であろうがですね、どんなに取り上げが忙しいと言うてもです、ね、それも大売出しと思うたらいいのですよ、お参りも、本当を言うたらそれ以上なんですよ、ね、ですから、どんなに取り上げが忙しいかと言うてもです、その思いそのものが取り上げだと思うたらいいのですよ。それを抜きにしては取り上げにはかかれんと言う取り上げなんです。はぁもう大売りで忙しゅうございますけん、御無礼しますと言ったような信心ではです。
 今日私がいう死んだと思うて欲を放してという事は出来ないと思う。もうどんなに何々で忙しいと言うてもです、ね、例えばなら大売出しとか、その取り上げの事だけじゃないですよ、ね、そのお参りそのものがです、今日一日の中にかけたら今日一日がないというような気持ちなんです、言うなら。ね、ここんところの思い込みができるために、死んだと思うて、思って欲を放してと言う様なですかね、こう言う信心がでけたらですね、もう、本当にそら素晴らしい事だろうとこう思いますね、
 成程その為に大売出しなら大売出しの時に一つの物を売りそこなうと言った様な事があるかもしれませんよね、取り上げがよそよりも一日、また二日長く延びるかも知れませんよね、けれどもそんな事は前々実は問題じゃないと分からせて頂く事だと思うね信心とは。問題はですね私の心の中に日にち、有り難い勿体無い安らぎの安心の生活をさせて頂く事なんですからおかげは。大売出しを頂いて大売出しをしてから儲け出そうという事も取り上げをして、あれもその半年(     )取り上げようという事もです。
 問題は本当の幸せを頂くためでしょうもん、ね、その根本のところを一つお互いが分からせて頂きますとですね、このお参りも取り上げの中に入ってるんだと、このお参りも大売出しの中にあるのだと言うような思い込みです。そこには例えば私が昨日、善導寺で感じましたように、死んだと思うて欲を放してとこう言う、どうぞおかげを頂かせてくださいますように、おかげを、おかげをと皆が願うから、ね、めぐりのお取り払いもしてやらならん、ね。おかげもやらなんならん、神様も忙しい氏子がおかげを頂かせてくれと願うから、先ずめぐりのお取り払いから掛ると。
 氏子はもうそれ位でようございますと言う態度をとると仰る、もうそれ位で結構でございますと言った様な態度をとる、大売り出すでございますけん、取り上げでございますけん、という事なんです、ね。本当にめぐりのお取り払いが始まって来るとですたい、いわゆるそこに修行が始まるから、その修行に耐えられずにもうこの位で早く楽になりたい、楽になりたい、もうこれではやはり病気災難は根の切れるまでと言った様なおかげ、井戸が清水になるまでと言った様なおかげにはならないと思うんですね。
 ですから私共がです、特別のそう言う、そのおかげを願っておるから、なら信心には修行がつきものと修行にお徳が付くのであり、おかげが付くのだと仰るように、もう修行は抜きにするわけにいかん、ですからその修行がです、日にちの中にです、例えば御日参りは当たり前の事としてできる、それは、取り上げであるならそのお参りも取り上げの中にある、取り上げの中取り上げであると言う、本当を言うたら取り上げ以上なんですけれど、それを思い込ませて頂くという事、そう言う思い込みが出来た信心、ね。
 それでなら今朝の御理解を、言うなら取り上げの中に大売出しの中に今日一日の中に、言うなら現していこうと言う、ね、それに今朝の御理解はどげなん御理解じゃったよと言う様な事では出来んわけですよね。だからどこでも良い一言でも良いからです、ね、本当は肝心要の所を、頂けれるようにならなければならんのですけれども、一つの信心の信心の知能程度でも申しましょうかね。
 によってそこをキャッチするわけでございますから、そこをキャッチさせて頂けれる稽古、と同時に私共の心の中にですね。そういう一つの豊な思い込みと言う、いわばそれが本当の思い込みなんです、今日も大祭で忙しいけんで、朝の御祈念を御無礼をしようと言う様な事じゃなくです、もうその朝の御祈念から始まらなければ大祭も頂けないという事なんですよ言うなら。ね。
 その大売り出しの事だけは大事にしようとするから言うなら。それでねだからそうしなければならんのじゃないですよ、そうさせて頂かなければおられんほどの信心を頂けた時です、私共は言うなら、させられる修行と言った様なものはなくなるだろうと思いますね。もうそれこそ、毎日毎日が本当に有り難い、毎日としてです、おかげの頂けれる、まぁ言うなら、ある場合にはのんびり見えるかもしれませんよね。
 はぁもうそげんな、もうくらか内から、とりあげなんかは出よんなはるとに、まぁ例えば久富さんあたりのように、背広どん着てから、皆田や畑にいきよんなはるとに、椛目通いしよんなさるのですから、まぁのんびりした事じゃあるですけれどもです、考えてもご覧なさい、それの方がいい事じゃないですか本当言うたら、それがもう本当にこん忙しかつに参らにゃならんと言った様ものじゃなくです、片付ける様な事じゃなくてです、その事もその一日の中にそこから始まるんだと言う思い込みなんです。
 そこにいよいよ神様と私共との間にです、もうなんともいえん豊なですね、交流と言うものが始まる、勿論そこから成程お参りにこれだけの時間やら、ものやら金やらを通やしておるけれども、一つも通やしておる事になってない、いやむしろその方が豊な生活、豊なおかげ、ね、もう一家中の中にも本当に、もうこれがこの世のいわば極楽であろうと言う様なです、なんとも言えんおかげに育って行く様な私はおかげが頂けれるんだと言うふうに感じるのですね。どうぞ皆さんそこまで一つ歯を食いしばっての。
 御日参りと言った様なものではなくてですね、もうそれがなさらなければです、今日一日がないのですよ、いうたらと言う所までいく信心を神様と、いわば一体の信心とは、そう言う様な信心をいうのじゃなかろうかと、為にはまず厳しいようですけれども、死んだと思うて、欲を放さなければその辺が出来んのだと思うのです、そこにいわば本当になんと言うんですかね、いわゆる吾神と共にありと言った様な、いわば実感と言うものが、そう言う信心から頂けれるのじゃないでしょうか。
   どうぞ。